募金にご協力を。

小さい頃からひねくれていた僕は、募金活動をする児童たちを見て、

「利用されてんな」と思っていた。

彼らは募金活動の趣旨目的なんて完全に理解できているはずもないのに、見世物のように表に立たされていると。

大人がやるより若い子たちが大きな声で呼びかけた方が、「あら、あの子たち若いのに偉いわね」「頑張ってるあの子たちのために、募金するか」となることをわかっている大人たちに利用されていると。

大学では国際経済を学び、経済を回すことで貧困を解消することに興味を持った代わりに、募金という活動に対する疑問は大きくなった。

単純な募金は一回で終わってしまうため根本的な貧困解消にはならない。
それよりも、商売に繋がる元手を投資した方が持続可能な成長へと繋がり、貧困解消に役立つ、というような趣旨の勉強をしていたためだ。

もちろん上記の考え方に対しても反論はあるし、こうしたら貧困が無くなるなんて絶対的な解決法はない。ただ、募金が貧困解消の解にはなり得ない、というのが僕がいままで勉強してきた中での揺るがない持論であった。

そんな僕は今、皮肉にも募金大国にいる。

多くの富を持つことが悪とされ、
所得のうちのかなりの割合を募金に費やす。
募金=良い行いをすることで功徳を積み、たくさん良い行いをすれば天国に行けるとされている。

持論は揺るがないが、この考え方は美しい。
人々は優しい心を持ち、お互いを思いやる。良い行いを互いにしていこうと考える助け合いの社会が広がっている。

さて、この国では子供が労働しているところを見かけることが少なくない。
5-6歳じゃないかと思われる児童が路上で花を売っていたりする。
車道に出て、可愛い顔で車の窓にへばりつき、「買って、買って」とこっちを見てくるんだ。

これも子供のか弱さを利用したビジネスだろう。募金の心が根付くこの国の人たちは、可哀想だからといってその子たちから花を買う。

目の前のその子供のその日1日を暮らすお金を助けることにはなる。そのため、花を買う人たちを否定はできないが、これもまた根本的な解決ではない。

しばらく道を進むと、今度は学生と思しき若い男女が花を売っている。
現地の人に話を聞くと、彼らは子供たちが花を売るので忙しく学校に行かない現状を憂い、子供たちから花を買って代わりに自分たちが売っているのだという。

なるほど、学生が現状に問題意識を持ち、なおかつ行動に移しているなんて素晴らしいじゃないか。子供たちは学校に行く時間が出来、将来はもっと質の高い労働ができるようになり貧困から脱出できるかもしれない。

と、初めは思ったが、時が経つにつれ頭の中でいくつかの疑問が湧き上がってきた。

まず、学生の彼らから花を買うときの消費者の購買意識を考えてみるとあまりにも複雑で面白い。

「子供たちがその健気さを武器に労働することで学習の時間がなくなっていくことを危惧し、学生でありながら問題提起をして立ち上がってるなんて若いのに偉いじゃないか!この学生たちが頑張ってるからお金を払ってあげよう!」である。
学生である彼らが売りにするのも児童とおなじで「若さと懸命さ」であるというのも興味深いし、そこに「正しい行いを応援したい気持ち」が加わって非常に複雑な構造となっている。
だが、これは募金と非常によく似ている。

次に、販売している彼らもまた学生であり、学業の時間を割いて活動しているというところも興味深い。

児童期の基礎的な学習を受けないと、その後の将来に大きく関わるため、児童期の学習を優先した方が良いという考え方には賛同できるが、児童を児童労働から解放し、学習の時間を与えるために代わりに学生が学習時間を削って労働しているというのはなんだかパラドックスのようだ。

そして最後に、児童から花を買うまでは良いが、その後自分たちが児童と同じように花を売るという行動に出ていることについても賛否ありそうだ。

児童には花を売るしか出来ないかもしれないが、そこそこに成長している彼らであれば、もっと生産性のある仕事ができる。
だが彼らは児童から買った花を、そのまま同じように売り始めた。これは何だか最適化されていない気がしてならない。

色々屁理屈をこねたが、ただブログを書いている僕よりも実際に行動に出ている彼らの方が何倍も社会に貢献していることは確かで、
非難するつもりは全くないことを補足しておきたい。
ただ、もっと良い方法がありそうな気がしてならない。そのモヤモヤを書き記しておきます。

やめさせてもらうわ。