ザ・ビューティフル・牛

この国の人たちは牛を食べない。


文頭なのでつい言い切ってしまった盛り癖のある私だが、食べないというと語弊があるので訂正しておく。もちろん食べる人もいる。食べない人が多数派というだけだ。


そして食べない理由は様々だ。十人十色で宗教も違えば、スタンスも違うから、皆さんもご存知の通り◯◯人はこういう理由で◯◯を食べない、ということは言い切れない。

そういう偏見が大きなうねりとなって無駄な争いが生まれる所をかつて何度か見てきたので、誰々がどう等と決めつけるつもりは一切ないことをまずはじめに断っておきたい。


だがしかし人間というのは一般化したがる生き物である。上記の通り、決めつけや偏見をしないという平和的前提に立った上で、多数派の理由はなんなのか?ということが気になってくる。


いろんな人に聞いていくと、ひとつの理由として、「宗教的にはオッケーだけど牛は家族だから食べないよ」説が流れてきた。


この国の農村地域では、牛は労働力の一員を担っており、もはや家族と同義だ。一緒に仕事をしてきた仲間を俺たちは殺せないぜ!ベイビー!


というのがこの説の中身である。


そこで、現地の知り合いに聞いてみた。


家族だから食べないんだろ?


すると彼は首を横に振った。


違うよ、牛は大事な労働力だから、食べたら働き手が減っちゃうからだよ。


おわかりいただけただろうか。

現地の知り合いの出した説は言わば「牛は労働力だから食べないよ」説である。

この2つの説は、非常によく似ているが、性質が全然違う。


前者の「牛は家族だよ」説も、後者の「牛は労働力だよ」説も、どちらもスタート地点は同じだ。農村地域で牛を労働力として使っているという事実を根拠にしている。


だが、そこから進む理論の道すじは全く違う。


「家族だよ」説の方は、そこから生まれる牛との暖かい信頼関係に重きを置いている。だが一方で「労働力だよ」説の方は冷酷でデジタルの世界だ。今日のご飯のために、牛という長期労働力を1頭分失うのが割に合わないというか、現実的でないということだ。


人は、ひとつの事実から複数の考えうる理由を見出した時、どの理由が1番しっくりくるかを検討するが、その検討時に考慮する材料として、「話の綺麗さ」が意外と重要なファクターになってるのではないかと思う。


牛を食べない理由がどうやら農村社会で牛を労働力として扱ってきたという事実と関係しているらしい

考えうる理由は以下かな?

1.家族だから

2.働き手が減ったら困るから

3.働いてる牛は美味しくないから

4.むしろ牛が人間を食べてる


こんな感じで色々理由考えてみたときに、

家族だから説がさ、一番綺麗じゃない?

事実かどうかはわからないよ、人の心の中は覗けないから。

でも、家族だから食べないってことにしたら綺麗じゃん。人と牛の信頼関係見えるじゃん。NHKで特番作れそうじゃん。

クイズミリオネアでこの4択出てきたら、1を選ぶじゃん。むしろそのほかが正解だった場合は出題者の人格問われるじゃん。


みたいな感じで、事実かどうかは別として、「答えになりやすい答え」ってあるよね。


時々クイズ番組とかでタレントが

「え〜もう事実はどうあれ、正解が1であってほしいです」とか言ってるシーンみたことあるよね。

もうそれってクイズとして成立してないから!って突っ込みたくなるけど、まさしくそんな感じで、人はやっぱり綺麗な答えであってほしいと思うんだよね。きっと。


その方が人にも話したくなるよね。

「俺が今住んでる国の人たち、たいてい牛食べないんだ。理由は家族だと思ってるからだよ」って友達に話したらなんだかあったかい気持ちになれるけど


「たいてい牛食べないんだ。理由は労働力の温存」

っていったらさ、なんか冷たい奴らみたいじゃん。パソコン叩きながら労働力をパラメータ管理してるインテリ集団みたいな画が浮かぶじゃん。浮かばせたいイメージとだいぶ乖離してるじゃん。


だからさ、事実はどうあれ、「バズりやすい答え」と「バズりにくい答え」だったら

今の世の中「バズりやすい答え」が答えになっちゃうよね。バズりが正義だもんね。(必ずしもそうではないが)


でもそんなバズりまくりの答えから離れたところで、事実はもっと0と1の世界かもしれないから、物事は深く分析しなきゃいけないと思ったよ。


そんじゃあの。




ハイレベルな資料

あくまで自分が経験してきた周辺環境で判断してるため、こんな言い方は適切でないかもしれないが


日本と英語圏とで、ハイレベルの使い方が違うなぁと思った話。


上司が

「ちょっとハイレベルな資料作ってみて」

っていった場合


日本語の感覚だと、クオリティの高い資料-つまり上司の考える必要事項を全て満たしていて、技術的にも申し分のない資料を作れといってるように聞こえる。


ちょっとやってみてじゃねえよ。といったところだ。


しかし今の職場でいうハイレベル資料とは、


深層部分まで掘り進めず、全体を俯瞰で見渡して、最重要な要素だけを表記した資料のことを指している。


クオリティではなく、階層の高い資料だ。


こういう所で英語と日本語の差が出るのは面白いなぁと思った。


というだけの話。


じゃあの。

10月15日

私はいつ、どこで感受性を落としてきたのか。


いま、桜木町にいる。


聞いた話だが、人は捜し物をするとき、だいたい桜木町にやってくる。


特に、「こんなとこにいるはずもないのに」とか言いながら見つからないものを探しにくるケースが多い。


僕も自分が落とした感受性を探しているうちに、あるはずもないことはわかっているのに気づけば桜木町にやってきたのだろう。


はじめて人に告白するが、私は物を落としやすい。


理由は整理ができていないからだ。


たくさんのものをとりあえず両手にできる限り持ったまま外に出かけて、掴んでいたもののうち1つをいつの間にか落としてしまうことがよくあった。


高校のとき、バンド活動をするために練習場所を探した。スタジオのチラシを持ち帰ろうと手に持って歩いていたが、スタジオから駅までの道中でふと気がついたらもうチラシを持っていなかった。


徒歩5分以内の間である。

振り返り道を戻ると、チラシは道に落ちていた。


僕は自分の手のひらの感覚がいかに信用ならないかについて大層驚き、嘆き、落胆した。


もちろん、落とされたチラシの身になって考えると、驚き、嘆き落胆したいのはチラシの方である。


突然手のひらから滑り落ち、駅の高架下で人に踏まれまくっていたチラシの痛みが聞こえてきそうなものだが、私にとってはそんなチラシの痛みより、これから一生付き合って行く自分の手の無力さの方が重大な問題だったのだ。


財布や鍵、航空券など、重要なものをよく失くした。すぐに見つかる場合もあれば、全く出てこないこともあった。


付き合っていた彼女から貰ったものを落とした時は最低である。それがお揃いのものだったり、相手の家の合鍵だったりとかするともう記憶から消したくなる。というか消した。詳しく覚えていない。


子供ならまだしも、30手前になってもまだ落し物をするのだから、これは明確な欠点なのだろう。


ただ、自分の欠点を治せないとしても、対処していかなければいけないのが大人なのだ。


たくさんのものをいっぺんに持たないようにする、1つ1つのものがなくなっていないか頻繁に確認する、場所を決めて整理する、などをし、僕はこの欠点と付き合っている。


さて、私は文書を書くのが好きで、幼い頃から書いたものを褒められることが多かった。年相応のレベルよりはうまく書くことが出来たのだ。中学生の頃は自意識を爆発させ、ろくにクラスの女の子と直接お話することが出来なかったが、ひとたびアドレスを交換すればメールが面白いと言われ、mixiが出来た頃には日記上で小説まがいのものを書き、友達に見せては、一部からmixiで何やってんの?と本気で引かれつつも一部から好評価をもらうことを楽しみとしていた。その後もいくつかブログを開設し、面白いことを書くことを目指した。


物を書くことが自分のアイデンティティの1つであることは間違いない。


ただ、突き詰めて小説を書いたり、物を書こうと思った時に、圧倒的に自分に不足しているものに嫌でも気づかされる。


感受性だ。


私は感受性をどこかに落とした。


きっとたくさんのものを持って生まれてきたはずなのに、


手のひらからこぼれ落ちたのだ。


それも、おそらくかなり早い段階で落としている。物心がついた時にはもう僕の手に感受性は無かった。これはもう警察にも届出不可能だ。


いつ頃落としたんですか?わかりません。

どの辺で落としたかわかりますか?わかりません。


こんな稚拙な問答が許されるのは迷子の子猫ちゃんである場合のみである。お巡りさんもイヌ限定だろう。


あるいは、私は知らぬ間に悪魔に感受性を売り渡したのだろうか?


かのロバートジョンソンは十字路で悪魔に魂を売り渡し、引き換えにギターの超絶スキルを身につけたらしい。

自分も悪魔に感受性を売ったのではないかと過去の記憶を遡り、頭を巡らせたが、そんなわけはないし、感受性と引き換えに何も貰った覚えはない。


高校2年生の時に、私は大きな衝撃を受けた。


同じクラスになった女の子のなかに、感受性のバケモノがいたのだ。

あれはもう歩く感受性、感受性モンスター、センシティブ爆弾、THEもののあはれ、色々並べてみたものの、その感受性の豊かさたるやどのように形容しても不足する、そんな女性だった。


文書を書かせたら、そのあまりにも瑞々しく活き活きした表現に、書かれた文字がそれぞれ意思を持って喜んでいるのではないかと感じるほど。


最初に彼女の文書を見たのは確かmixiだった。

夜の空を見て、風や月の様子から、季節が変わり目を感じたり、音楽を聴いて昔の記憶がよみがえったりする話を、表現豊かに描写していた。


戦慄が走ったのだ。

空を見上げて何かを感じたことがあっただろうか。

季節の変わり目に物思いにふけったことがあったか?

過去の記憶を大切にしているだろうか?


周りの社会や物事から、ここまで何かを受け取ることが出来たら、どんなに毎日が豊かになるだろうか。


その才能に嫉妬し、尊敬した。

この人のように人の心を動かす文書が書きたいと本気で思ったのだった。


私たちはその後高校を卒業して違う道を歩むが、こんなに素敵な友人を無くすわけにはいかないと、その後もときどき連絡をとり、食事に出かけたりして、幸運にも彼女の人生のさまざまな「転機」のタイミングで、話を聞けることが多かった。


記憶に残っているのは、決断についての考え方だ。彼女は何度か職場を変えており、自分の人生をかけてどんなことをしていくかについて真剣に悩んでいた。


もはやこの時点で、大した考えもなしに流されて生きている私からすると大尊敬なのだが、


最近決まった仕事が、かつてのバイトや仕事などを含めた彼女の過去のさまざまな経験から、少しずつエッセンスを抽出してまとめたような仕事で、


今後に繋がるかどうかなどわかりもせずに歩んできた暗く長い道の先に、確実に未来につながる光を見つけ、その縁に感謝していると言っていたのだ。


その人にしか話せない人生の話は、誰の話であっても価値があるが、彼女の視点から紡ぎ出されたその話はとてつもなく素敵な話だった。


そんな彼女がついに今日結婚をする。

感受性、結婚するってよ。

嬉しいことに二次会に呼ばれたので、弾丸で日本に帰っています。


じゃあの。

ノス

街を歩いていると、観光客だと思われるのかバイクタクシーに乗らないか?と話しかけられる。


だいたい無視するのだが、ときどきこちらの進行方向にしっかり入ってきて話しかけてくるやつがいるので、軽い会話をして断ったりもする。


そう、今日も口ひげをたくわえた男が、にこやかに話しかけてきたんだ。


男「オイ!どこから来たんだ?」


ワイ「日本」


男「ヨロシクオネガイシマス」


ワイ「日本語上手だね」


男「君が行こうとしてるとこは4kmも離れてるじゃないか。俺はバイクタクシーをやってるから乗って行きなよ」


ワイ「はいはい、また勧誘ね。大丈夫大丈夫。歩いて行くから。」


男「おい待てよ!明日の朝!!」


ワイ「明日の朝?何のことだ?じゃあな」


男「明日の朝〜!!」


全く変なやつだった。なんだ、明日の朝って。

今日も乗らないし明日の朝も乗らないよ。バイクタクシーになんか。


歩みを進めて行くうちに、違和感がだんだん大きくなってくる。


待てよ


俺は自分の目的地を伝えていないのに...



なぜ、「4km」も離れているとあいつは言ったんだ...?



おかしいじゃないか。あまりにも具体的すぎないか?


まさか、、あいつは、、能力者なのか、、、?



人の心を読んだのか...もしくは未来が見えるのか?


預言者...!?



ノストラダムス...?!!


ノストラダムスの生まれ変わり...!!?


思えば、似てたかもしれない。ノストラダムスに。すげー似てた。俺の記憶の中のノストラダムスに。


待て待て、預言者ノストラダムスの生まれ変わりとすると、、



もっと気になることがある、、!!



「明日の朝」というフレーズだ!!


明日の朝?



明日の朝に何があるっていうんだ!!


いったい何を預言しようというのか!


不幸なことが起きることを伝えたがってたんじゃないのか!!


恐ろしい!



恐ろしすぎるぞノストラダムスの生まれ変わり!!!










その地点から僕の目的地まで1.1kmでした。

4kmって、適当やん。


やめさせてもらうわ。

おかえりなさい

夏休みで日本に帰ってきた。


成田空港に到着すると、

「おかえりなさい welcome to Japan」

と書いてあった。


シンプルかつ些細なことだが、


welcome to Japanの直訳はおかえりなさいではない。そこを機械的に翻訳するのではなく、

海外から戻ってきた日本人と、海外からの渡航者に向けてメッセージを分けているのだなぁと思った。


同時に、これはドメスティックに使われている言語だからできることで、2カ国以上で使われている言語では使えないな、とも思った。


いや、それだけですけど。


やめさせてもらうわ。

募金にご協力を。

小さい頃からひねくれていた僕は、募金活動をする児童たちを見て、

「利用されてんな」と思っていた。

彼らは募金活動の趣旨目的なんて完全に理解できているはずもないのに、見世物のように表に立たされていると。

大人がやるより若い子たちが大きな声で呼びかけた方が、「あら、あの子たち若いのに偉いわね」「頑張ってるあの子たちのために、募金するか」となることをわかっている大人たちに利用されていると。

大学では国際経済を学び、経済を回すことで貧困を解消することに興味を持った代わりに、募金という活動に対する疑問は大きくなった。

単純な募金は一回で終わってしまうため根本的な貧困解消にはならない。
それよりも、商売に繋がる元手を投資した方が持続可能な成長へと繋がり、貧困解消に役立つ、というような趣旨の勉強をしていたためだ。

もちろん上記の考え方に対しても反論はあるし、こうしたら貧困が無くなるなんて絶対的な解決法はない。ただ、募金が貧困解消の解にはなり得ない、というのが僕がいままで勉強してきた中での揺るがない持論であった。

そんな僕は今、皮肉にも募金大国にいる。

多くの富を持つことが悪とされ、
所得のうちのかなりの割合を募金に費やす。
募金=良い行いをすることで功徳を積み、たくさん良い行いをすれば天国に行けるとされている。

持論は揺るがないが、この考え方は美しい。
人々は優しい心を持ち、お互いを思いやる。良い行いを互いにしていこうと考える助け合いの社会が広がっている。

さて、この国では子供が労働しているところを見かけることが少なくない。
5-6歳じゃないかと思われる児童が路上で花を売っていたりする。
車道に出て、可愛い顔で車の窓にへばりつき、「買って、買って」とこっちを見てくるんだ。

これも子供のか弱さを利用したビジネスだろう。募金の心が根付くこの国の人たちは、可哀想だからといってその子たちから花を買う。

目の前のその子供のその日1日を暮らすお金を助けることにはなる。そのため、花を買う人たちを否定はできないが、これもまた根本的な解決ではない。

しばらく道を進むと、今度は学生と思しき若い男女が花を売っている。
現地の人に話を聞くと、彼らは子供たちが花を売るので忙しく学校に行かない現状を憂い、子供たちから花を買って代わりに自分たちが売っているのだという。

なるほど、学生が現状に問題意識を持ち、なおかつ行動に移しているなんて素晴らしいじゃないか。子供たちは学校に行く時間が出来、将来はもっと質の高い労働ができるようになり貧困から脱出できるかもしれない。

と、初めは思ったが、時が経つにつれ頭の中でいくつかの疑問が湧き上がってきた。

まず、学生の彼らから花を買うときの消費者の購買意識を考えてみるとあまりにも複雑で面白い。

「子供たちがその健気さを武器に労働することで学習の時間がなくなっていくことを危惧し、学生でありながら問題提起をして立ち上がってるなんて若いのに偉いじゃないか!この学生たちが頑張ってるからお金を払ってあげよう!」である。
学生である彼らが売りにするのも児童とおなじで「若さと懸命さ」であるというのも興味深いし、そこに「正しい行いを応援したい気持ち」が加わって非常に複雑な構造となっている。
だが、これは募金と非常によく似ている。

次に、販売している彼らもまた学生であり、学業の時間を割いて活動しているというところも興味深い。

児童期の基礎的な学習を受けないと、その後の将来に大きく関わるため、児童期の学習を優先した方が良いという考え方には賛同できるが、児童を児童労働から解放し、学習の時間を与えるために代わりに学生が学習時間を削って労働しているというのはなんだかパラドックスのようだ。

そして最後に、児童から花を買うまでは良いが、その後自分たちが児童と同じように花を売るという行動に出ていることについても賛否ありそうだ。

児童には花を売るしか出来ないかもしれないが、そこそこに成長している彼らであれば、もっと生産性のある仕事ができる。
だが彼らは児童から買った花を、そのまま同じように売り始めた。これは何だか最適化されていない気がしてならない。

色々屁理屈をこねたが、ただブログを書いている僕よりも実際に行動に出ている彼らの方が何倍も社会に貢献していることは確かで、
非難するつもりは全くないことを補足しておきたい。
ただ、もっと良い方法がありそうな気がしてならない。そのモヤモヤを書き記しておきます。

やめさせてもらうわ。

関連キーワードから始まるストーリー

まだまだ英語ができない。


喋りたいこと、書きたいことをGoogleで「◯◯  英語」と検索し、検索結果から適当な単語を探し続けている。


この間も「置き忘れた」という表現をなんと言えば良いのかわからず、「置き忘れる 英語」で検索したのだが、


その検索結果のページ下、関連キーワードの中に

1つだけ、どう考えても関連性の薄いワードがあった。


f:id:groliosa:20170722140119p:plain


私はエミと付き合い始めて3週間がたった


なに?その物語。笑


関連キーワードは、通常検索者を助けるため、不足する検索ワードを補ってより正確な検索方法を提案してくれる機能のはずだ。


そして、実際この突飛すぎるエミちゃんの選択肢以外はしっかりと「置き忘れた」に関する英語表現を豊かにしてくれそうなものばかり。


例外にも程がある。


私はエミと付き合い始めて3週間がたった。


付き合ってる期間も絶妙だ。まだ1ヶ月も経っていない。不安定な時期だ。



******


私はエミと付き合い始めて3週間がたった。


実のところこの3週間、心の何処かに少しだけ不安な気持ちがあったが、一体なにが原因なのかわからなかった。


今日始めて彼女の家に行ってみて、その不安の原因は顕在化した。


傘の忘れ物だ。

男物の傘の忘れ物が、エミの家にはあったのだ。


不安といっても、別に直接的に男の影に気づいていた訳じゃない。

ただ、今までの彼女とはちょっと違うタイプの子だったから、どうやって距離感を詰めていいのかわからなかったんだ。


私が今まで付き合ってきた彼女は、とにかくなんでも質問してきた。今日何をする予定なのか?ご飯は何を食べたのか?仕事はどうだったのか?


女性の影が見えると分かりやすく怒ったし、束縛をして何かしらのルールを設定する彼女もいた。


今まで私にとって女性と付き合うということは、支配欲、独占欲を表現されることだったのだ。


ところがエミはそうではなかった。

だからこそ、こちらから浮気を疑ったりすることは出来なかった。


独占や支配は燃え上がるような恋をもたらすが、同時にそれを続けて行くと疲弊してしまう。だから、そういうことをしてこないエミに私は惹かれて行った所もある。

私も頭の中では、独占や支配はあまりやってはいけないことだと思っているんだ。


エミとは合コンで知り合った。

一次会の早い段階で意気投合して、そのあとメッセージのやり取りをするようになった。

どこで働いてるのかとか、料理が趣味だとか、旅行が好きだとかそんな話で盛り上がった。


でも、彼女にどれだけ男友達がいるとか、そういったことは聞かなかった。

たとえ何人だったとしてもいい気持ちはしないだろう、知らない方が幸せだ。

しかし、聞かないと決めても気になってしまうものは気になってしまう。


時折彼女が言う「友達」が男友達なのか、女友達なのか、推理をしながら話を聞いてしまう。


エミは友達と旅行した話をした。

私はその友達が男なのか、複数なのかデートなのか気になっていた。

旅行場所を聞くと、車でしかいけない所だ。

「ドライブ?いいね!でも長距離だから大変じゃない?」と返す。

彼女は、「私は運転してないけどね」と返した。

女子同士で運転しないことってあるか?

これはもう男とデートしたに違いない。

私の想像はどんどん闇へ進んで行く。


「運転しないって女子の特権だよね!」

私は返す。

リアクションを待つ。

話をそらされる。

エミは、手練れだ。


そして今日、どうみても男物の傘の忘れ物を彼女の家で見つけたんだ。


確信に近い感情が芽生える。

あぁ、やっぱり浮気されてたんだ。

先に彼女の家に入った男がいる。

弟とかいたか?いや、そんな話は聞いてない。

見つけてしまったからには聞きたい。

でも、聞けない。こんな時なんて聞いていいかわからない。どうすればいい?

この際、、

英語で聞いてみるか??




「置き忘れる  英語」  検索




っていう関連性があって予測変換に出てきたとしたらすげーいいよね。


何がいいのか。


妄想癖がひどい。


やめさせてもらうわ。