プレゼントの渡し方

スマートさは「慣れ」だと思う。

 

昔仕事でお世話になった女性と食事に行って、

その帰り道、食事のお礼としてプレゼントを頂いたのだが、

プレゼントの仕方が非常にスマートだったので今後参考にしたい。

 

帰り道、駅の中に入っている某化粧品メーカーの店を前に

「ちょっと寄ってもいいですか?」と了承を得て

「私ここのハンドクリーム使ってるんです。とっても良いんですよ」

「あなたはハンドクリーム使ってますか?」と言った質問をさりげなくしつつ

ハンドクリームの試用をする。そして、僕にも試用させる。

いくつかの選択肢の中で迷い、「あなただったらどっちを使いますか?」と

自分が購入するときの参考にするように僕に選択させ

「わかりました。これ買います。お会計してきますね」と会計に移り

会計完了したものを「これ、プレゼントです」と渡された。

 

やられた。

 

最後まで自分用と見せかけ購入し、それをプレゼントする作戦だ。

しかも、それとわからぬようにこちらの意向を確認しているところがプロ。

ハンドクリームというチョイスも何だか丁度良い。

 

これがプレゼントだと分かっていたら、人によっては断ったり、自分が払うと言ったり、値段の安いものが良いと言うかもしれない。当人が購入しようとしていると思っていたため、本当に自分だったら何を使うかを考えてしまった。

 

きっとプレゼントをすることに慣れているんだろう。

とってもスマートで、素直に嬉しく受け取った。

 

 

さて、こちらの国で、僕のことを好きな女の子がいる。

彼女は今まで男性と付き合ったことがなく、

好きな人の前でどう接して良いのかわからない。

人のこと言えるほどではないが、それにしても恋愛経験値が低い。

 

好きな気持ちの表れから、色々なものを買ってはプレゼントしてくれる。

最初は喜んだが、その頻度と量にだんだん喜べなくなっていった。

 

そんなに多くないお小遣いの中でやりくりしているはずで、

お財布事情的にも申し訳ないし、プレゼントが日に日に重たいと感じてきたので

何か買おうとしているという情報を事前に入手したときは全力でやめさせるのだが、

大抵既に購入済みの場合が多い。

 

そして、彼女はプレゼントの渡し方もスマートではない。

好きな男性に直接プレゼントをすることが恥ずかしくてできないので、

彼女は友人を使う。

 

彼女の友人は「ミステリーデリバリーサービス」と言い、

僕に彼女のプレゼントを渡してくる。

ただでさえ量と頻度に重さを感じていた僕は、このミステリーデリバリーサービスを怖いと感じるようになって言った。直接気持ちを伝えられることなく、こちらもありがとうも言えず、商品ばかり届けられてくるので、次第にその想いの重さに僕は耐えられなくなった。

 

そして、彼女から「好きだ」と告白された時に爆発して言ってしまったのだ。

「僕は好きとか嫌いとかそういう以前の状態だ。僕は君のことをよく知らない。プレゼントを渡す時でさえ直接ではなく友人経由じゃないか。どんな声でどんな話をするのか、直接会って話したことがほとんどないから君のことがわからないんだ。」

 

彼女は考えを改め、次の機会には直接僕にプレゼントを渡しにきた。

少し緊張して、震えた声で言った。

 

「今回はミステリーデリバリーサービスじゃなくて、私から直接持ってきたんだからね!」

 

彼女の自分の姿勢を改めようとする姿が、少し、可愛いなと思った。

 

スマートさは「慣れ」だと思う。

 

でも、スマートでなくても、気持ちの伝わるプレゼントは嬉しい。

10月15日

私はいつ、どこで感受性を落としてきたのか。


いま、桜木町にいる。


聞いた話だが、人は捜し物をするとき、だいたい桜木町にやってくる。


特に、「こんなとこにいるはずもないのに」とか言いながら見つからないものを探しにくるケースが多い。


僕も自分が落とした感受性を探しているうちに、あるはずもないことはわかっているのに気づけば桜木町にやってきたのだろう。


はじめて人に告白するが、私は物を落としやすい。


理由は整理ができていないからだ。


たくさんのものをとりあえず両手にできる限り持ったまま外に出かけて、掴んでいたもののうち1つをいつの間にか落としてしまうことがよくあった。


高校のとき、バンド活動をするために練習場所を探した。スタジオのチラシを持ち帰ろうと手に持って歩いていたが、スタジオから駅までの道中でふと気がついたらもうチラシを持っていなかった。


徒歩5分以内の間である。

振り返り道を戻ると、チラシは道に落ちていた。


僕は自分の手のひらの感覚がいかに信用ならないかについて大層驚き、嘆き、落胆した。


もちろん、落とされたチラシの身になって考えると、驚き、嘆き落胆したいのはチラシの方である。


突然手のひらから滑り落ち、駅の高架下で人に踏まれまくっていたチラシの痛みが聞こえてきそうなものだが、私にとってはそんなチラシの痛みより、これから一生付き合って行く自分の手の無力さの方が重大な問題だったのだ。


財布や鍵、航空券など、重要なものをよく失くした。すぐに見つかる場合もあれば、全く出てこないこともあった。


付き合っていた彼女から貰ったものを落とした時は最低である。それがお揃いのものだったり、相手の家の合鍵だったりとかするともう記憶から消したくなる。というか消した。詳しく覚えていない。


子供ならまだしも、30手前になってもまだ落し物をするのだから、これは明確な欠点なのだろう。


ただ、自分の欠点を治せないとしても、対処していかなければいけないのが大人なのだ。


たくさんのものをいっぺんに持たないようにする、1つ1つのものがなくなっていないか頻繁に確認する、場所を決めて整理する、などをし、僕はこの欠点と付き合っている。


さて、私は文書を書くのが好きで、幼い頃から書いたものを褒められることが多かった。年相応のレベルよりはうまく書くことが出来たのだ。中学生の頃は自意識を爆発させ、ろくにクラスの女の子と直接お話することが出来なかったが、ひとたびアドレスを交換すればメールが面白いと言われ、mixiが出来た頃には日記上で小説まがいのものを書き、友達に見せては、一部からmixiで何やってんの?と言われつつも一部から好評価をもらうことを楽しみとしていた。その後もいくつかブログを開設し、面白いことを書くことを目指した。


物を書くことが自分のアイデンティティの1つであることは間違いない。


ただ、突き詰めて小説を書いたり、物を書こうと思った時に、圧倒的に自分に不足しているものに嫌でも気づかされる。


感受性だ。


私は感受性をどこかに落とした。


きっとたくさんのものを持って生まれてきたはずなのに、


手のひらからこぼれ落ちたのだ。


それも、おそらくかなり早い段階で落としている。物心がついた時にはもう僕の手に感受性は無かった。これはもう警察にも届出できまい。


いつ頃落としたんですか?わかりません。

どの辺で落としたかわかりますか?わかりません。


こんな稚拙な問答が許されるのは私が迷子の子猫ちゃんである場合のみである。お巡りさんもイヌ限定だ。


あるいは、私は知らぬ間に悪魔に感受性を売り渡したのだろうか?


かのロバートジョンソンは十字路で悪魔に魂を売り渡し、引き換えにギターの超絶スキルを身につけたという話を聞いて、自分も感受性を売ったのではないかと頭を巡らせたが、そんなわけはないし感受性と引き換えに何も貰っていない。


高校2年生の時に、私は大きな衝撃を受けた。


同じクラスになった女の子のなかに、感受性のバケモノがいたのだ。

あれはもう歩く感受性、感受性モンスター、センシティブ爆弾、THEもののあはれ、色々並べてみたものの、その感受性の豊かさはどんな表現でも不足する、そんな女性だった。


文書を書かせたら、そのあまりにも瑞々しく活き活きした表現に、書かれた文字が意思を持って喜んでいるのではないかと感じるほど。


最初に彼女の文書を見たのは確かmixiだった。

夜の空を見て、風や月の様子から、季節が変わり目を感じたり、音楽を聴いて昔の記憶がよみがえったりする話を、表現豊かに描写していた。


戦慄が走ったのだ。

空を見上げて何かを感じたことがあっただろうか。

季節の変わり目に物思いにふけったことがあったか?

過去の記憶を大切にしているだろうか?


周りの社会や物事から、ここまで何かを受け取ることが出来たら、どんなに毎日が豊かになるだろうか。


その才能に嫉妬し、尊敬した。

この人のように人の心を動かす文書が書きたいと本気で思ったのだ。


私たちはその後高校を卒業して違う道を歩むが、こんなに素敵な友人を無くすわけにはいかないと、その後もときどき連絡をとり、食事に出かけたりして、幸運にも彼女の人生のさまざまな「転機」のタイミングで、話を聞けることが多かった。


記憶に残っているのは、決断についての考え方だ。彼女は何度か職場を変えており、自分の人生をかけてどんなことをしていくかについて真剣に悩んでいた。


もはやこの時点で、大した考えもなしに流されて生きている私からすると大尊敬なのだが、


最近決まった仕事が、過去からのバイト、仕事などを含めた彼女の様々な経験から少しずつエッセンスを抽出してまとめたような仕事で、


今後に繋がるかどうかなどわかりもせずに歩んできた暗く長い道の先に、確実に未来につながる光を見つけ、その縁に感謝していると言っていた。


その人にしか話せない人生の話は、誰の話であっても価値があるが、彼女の視点から紡ぎ出されたその話はとてつもなく素敵な話だった。


そんな彼女がついに今日結婚をする。

感受性、結婚するってよ。

嬉しいことに二次会に呼ばれたので、弾丸で日本に帰っています。


じゃあの。

もって2週間でしょう

足の親指が腫れた。


理由は、サイズの小さい靴を履いて運動したからだ。


靴を脱いでからは痛みはなくなったし、

しばらくして腫れも引いた。


しかし、腫れが引いた結果、とんでもないことが起こった。


腫れていた指に合わせて爪が浮き上がり、パカパカ状態になってしまったのだ。


ツメがパカパカ状態というとものすごくいたそうなイメージだが、全くの無痛だから安心してほしい。僕とツメとの関係性は円満だ。


しかしいつまでもパカパカ状態では困る。


衛生的にも安心できない国に住んでいるため、そこから変にばい菌が入ってもやばい。


日本に帰国した僕は、その足で病院に向かった。


「先生、足の爪がパカパカなんですけど、これどうしたら、、」


「うーん、まぁ、しばらくしたら取れますね、これは」


「えっ!またくっついたりしないんですか?」


「いっかいはがれたらくっつきませんね。まぁ、もって2週間でしょう」


「もって2週間!余命宣告みたい!」


「自然に取れるのを待てば細胞も傷つかないので新しく生えてきます。とはいえ途上国で不安でしょうから、もし傷ついちゃった場合は軟膏を塗ってくださいね」


「ありがとうございます」



そして、それから約1ヶ月がたち、ついに僕はツメとお別れしました。


もって2週間って言われてた割には長いこと頑張ったなと思います。


なにこの報告。そしてなにこのコメント。


やめさせてもらうわ。






ノス

街を歩いていると、観光客だと思われるのかバイクタクシーに乗らないか?と話しかけられる。


だいたい無視するのだが、ときどきこちらの進行方向にしっかり入ってきて話しかけてくるやつがいるので、軽い会話をして断ったりもする。


そう、今日も口ひげをたくわえた男が、にこやかに話しかけてきたんだ。


「オイ!どこから来たんだ?」


「日本」


「ヨロシクオネガイシマス」


「日本語上手だね」


「君が行こうとしてるとこは4kmも離れてるじゃないか。俺はバイクタクシーをやってるから乗って行きなよ」


「はいはい、また勧誘ね。大丈夫大丈夫。歩いて行くから。」


「おい待てよ!明日の朝!!」


「明日の朝?何のことだ?じゃあな」


「明日の朝〜!!」


全く変なやつだった。なんだ、明日の朝って。

今日も乗らないし明日の朝も乗らないよ。バイクタクシーになんか。


歩みを進めて行くうちに、違和感がだんだん大きくなってくる。


待てよ


俺は自分の目的地を伝えていないのに...



なぜ、「4km」も離れているとあいつは言ったんだ...?



おかしいじゃないか。あまりにも具体的すぎないか?


まさか、、あいつは、、能力者なのか、、、?



人の心を読んだのか...もしくは未来が見えるのか?


預言者...!?



ノストラダムス...?!!


ノストラダムスの生まれ変わり...!!?


思えば、似てたかもしれない。ノストラダムスに。すげー似てた。俺の記憶の中のノストラダムスに。


待て待て、預言者ノストラダムスの生まれ変わりとすると、、



もっと気になることがある、、!!



「明日の朝」というフレーズだ!!


明日の朝?



明日の朝に何があるっていうんだ!!



明日の朝は普通に出勤だ。

しかし、出勤前に軽く運動をしてあの周辺をランニングしようかとも思っていたところだよな...


まさか...俺がランニングする未来を預言したのか...!!



恐ろしい!



恐ろしすぎるぞノストラダムスの生まれ変わり!!!










その地点から僕の目的地まで1.1kmでした。

前から思っていたんですが、

日本語の「夢」の意味と英語の"dream"の意味がほとんど同じってすごくないですか?

睡眠時間に見る夢と、思い描く理想の夢って全然ニュアンスが異なるものじゃないですか?

その2つが、違う文化圏で同じ単語で表現されるに至ったなんて奇跡的。

経緯に連関性があるのでしょうか?

他の国がどうなってるのかも気になる。

今日はそれだけ。


おかえりなさい

夏休みで日本に帰ってきた。


成田空港に到着すると、

「おかえりなさい welcome to Japan」

と書いてあった。


シンプルかつ些細なことだが、


welcome to Japanの直訳はおかえりなさいではない。そこを機械的に翻訳するのではなく、

海外から戻ってきた日本人と、海外からの渡航者に向けてメッセージを分けているのだなぁと思った。


同時に、これはドメスティックに使われている言語だからできることで、2カ国以上で使われている言語では使えない場合わけだな、とも思った。


いや、それだけですけど。


やめさせてもらうわ。

募金にご協力を。

小さい頃からひねくれていた僕は、募金活動をする児童たちを見て、

「利用されてんな」と思っていた。

彼らは募金活動の趣旨目的なんて完全に理解できているはずもないのに、見世物のように表に立たされていると。

大人がやるより若い子たちが大きな声で呼びかけた方が、「あら、あの子たち若いのに偉いわね」「頑張ってるあの子たちのために、募金するか」となることをわかっている大人たちに利用されていると。

大学では国際経済を学び、経済を回すことで貧困を解消することに興味を持った代わりに、募金という活動に対する疑問は大きくなった。

単純な募金は一回で終わってしまうため根本的な貧困解消にはならない。
それよりも、商売に繋がる元手を投資した方が持続可能な成長へと繋がり、貧困解消に役立つ、というような趣旨の勉強をしていたためだ。

もちろん上記の考え方に対しても反論はあるし、こうしたら貧困が無くなるなんて絶対的な解決法はない。ただ、募金が貧困解消の解にはなり得ない、というのが僕がいままで勉強してきた中での揺るがない持論であった。

そんな僕は今、皮肉にも募金大国にいる。

多くの富を持つことが悪とされ、
所得のうちのかなりの割合を募金に費やす。
募金=良い行いをすることで功徳を積み、たくさん良い行いをすれば天国に行けるとされている。

持論は揺るがないが、この考え方は美しい。
人々は優しい心を持ち、お互いを思いやる。良い行いを互いにしていこうと考える助け合いの社会が広がっている。

さて、この国では子供が労働しているところを見かけることが少なくない。
5-6歳じゃないかと思われる児童が路上で花を売っていたりする。
車道に出て、可愛い顔で車の窓にへばりつき、「買って、買って」とこっちを見てくるんだ。

これも子供のか弱さを利用したビジネスだろう。募金の心が根付くこの国の人たちは、可哀想だからといってその子たちから花を買う。

目の前のその子供のその日1日を暮らすお金を助けることにはなる。そのため、花を買う人たちを否定はできないが、これもまた根本的な解決ではない。

しばらく道を進むと、今度は学生と思しき若い男女が花を売っている。
現地の人に話を聞くと、彼らは子供たちが花を売るので忙しく学校に行かない現状を憂い、子供たちから花を買って代わりに自分たちが売っているのだという。

なるほど、学生が現状に問題意識を持ち、なおかつ行動に移しているなんて素晴らしいじゃないか。子供たちは学校に行く時間が出来、将来はもっと質の高い労働ができるようになり貧困から脱出できるかもしれない。

と、初めは思ったが、時が経つにつれ頭の中でいくつかの疑問が湧き上がってきた。

まず、学生の彼らから花を買うときの消費者の購買意識を考えてみるとあまりにも複雑で面白い。

「子供たちがその健気さを武器に労働することで学習の時間がなくなっていくことを危惧し、学生でありながら問題提起をして立ち上がってるなんて若いのに偉いじゃないか!この学生たちが頑張ってるからお金を払ってあげよう!」である。
学生である彼らが売りにするのも児童とおなじで「若さと懸命さ」であるというのも興味深いし、そこに「正しい行いを応援したい気持ち」が加わって非常に複雑な構造となっている。
だが、これは募金と非常によく似ている。

次に、販売している彼らもまた学生であり、学業の時間を割いて活動しているというところも興味深い。

児童期の基礎的な学習を受けないと、その後の将来に大きく関わるため、児童期の学習を優先した方が良いという考え方には賛同できるが、児童を児童労働から解放し、学習の時間を与えるために代わりに学生が学習時間を削って労働しているというのはなんだかパラドックスのようだ。

そして最後に、児童から花を買うまでは良いが、その後自分たちが児童と同じように花を売るという行動に出ていることについても賛否ありそうだ。

児童には花を売るしか出来ないかもしれないが、そこそこに成長している彼らであれば、もっと生産性のある仕事ができる。
だが彼らは児童から買った花を、そのまま同じように売り始めた。これは何だか最適化されていない気がしてならない。

色々屁理屈をこねたが、ただブログを書いている僕よりも実際に行動に出ている彼らの方が何倍も社会に貢献していることは確かで、
非難するつもりは全くないことを補足しておきたい。
ただ、もっと良い方法がありそうな気がしてならない。そのモヤモヤを書き記しておきます。

やめさせてもらうわ。